仏教と日本人について

仏教と日本人について

 日本人は宗教等と言われるとどうしてもうさんくさいと感じてしまい、「自分は無神論者だ」という考えている人が、多くいます。しかし、そんな日本人は「自分は無神論者だ」と考えていても、なぜか一つの宗教的価値観によってといういつされているかのような、行動や発言を行っていたりします。それは果たしてなぜなのか? このサイトではそんな仏教と日本の宗教について語っていきたいと考えています。

仏教のおしえ

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 日本人は「無宗教である」はたまた「無神論者である」という人が非常に多いように思います。また宗教等と言われるとどうしてもうさんくさいと感じてしまい、「自分は無神論者だ」といってはばからない人も多いのではないでしょうか?

 しかし、そんな日本人は「自分は無神論者だ」と考えていても、なぜか一つの宗教的価値観によってといういつされているかのような、統率された世界観や価値観をもって、行動や発言を行っていたりします。それは果たしてなぜなのでしょうか?

 このサイトではそんな日本人が影響を受けていると考えられる仏教という名の宗教と日本における影響などについて語っていきたいと考えています。

ほとんどの日本人が謎の仏教と神道を価値観に信仰している?

 実のところ、この「神様はいない」という思考は、釈迦の提唱した原始仏教によりどころがあります。もちろん、釈迦は神様がいないとは言っていませんが、もちろんいるとも言っていません。むしろ、そんなことを考える事は無為であり、苦しみを取り除く上で全く役に立つわけが無いと断じています。これを無記と言い、原始仏教にて釈迦は「神は存在するのか?」「世界は神によって作られたのか?」「世界は永遠なのか?」「修行を完成させた人物は死後存在できるのか?」などという質問に対して、「そんなことのために修行を始めたのか?」「それがわかれば貴方自身は苦しみから解き放たれるのか?」と返し、答えていません。

 このように否定せず、肯定せずの立場を貫いたのは、「自分を救えるのは神では無く、自分でしか無い」と熱心に考えていたからに他ありません。日本で無神論者だという人のほとんどが、やはり何かに苦しみを感じているとしたら自分で解決しようと思うのでは無いでしょうか? もっと具体的に言うのであれば、自分の信じる物に救いを求めるのでは無いでしょうか?

 このように日本人は知らず知らずの間に、大乗仏教では無く、かつて釈迦がたどり着いた原初仏教とも言える観念にたどり着いていると言えるのです。

 しかし、一方で、実際に宗教的な儀式やイベントなどを行う際には非常に神道的だと言えます。

日本と神道

 日本では明治維新から、第二次世界大戦終結までの間国家の支援の元で行われていた国家神道が、一つの大きな宗教としてありました。それ以前は皇室神道という皇室を中心とした神道や、神社神道という神社を中心にして氏子・崇敬者などの組織により行われる祭祀儀礼を中心にする信仰形態がありました。また、民族神道と呼ばれる民間で行われてきた信仰行事を行う神道がありました。他にも古神道などもありましたが、これのほとんどは、祭り型神道であるということが言えます。

 一応教え型神道というという物もあるにはあるけれど、多くの民衆によって親しまれていたのは、ほとんどが儀礼式である祭り型神道である。多くの日本人がクリスマスを祝い、バレンタインを祝い、神社にお参りをし、七五三をし、仏教的なお墓に収まるのは別に不思議でもなんでもなく、この儀礼主義、祭り型神道という物が、突き進んだ結果、神とお祭り、神と儀式という形式主義へと向かっていくこととなるのです。

 これは大乗仏教なども飲み込んでいくこととなりました。神とお祭り、神と祟り、神と儀式、神と祭事、そのような概念の一つとして組み込まれつつも、直接たどり着いたわけでは無い原始仏教的感覚へまでたどり着いている人がいるというのは本当に不思議なことです。

 また日本ではこのような形式主義の中で、一つの学問として仏教などが学ばれてきたという傾向があるため、「神を信じる」という物がすっかりと抜け落ちているとも言えます。結果としてその思想が進む上で非常に原始仏教に近い傾向を持つ性格へと変貌していったのではないでしょうか?

これはニーチェにも影響を与えた

 実のところ原始仏教の考え方も、日本的な考え方も、海外では一切通用しない独特なものです。

 そんな事もあってか実際にこの原始仏教の考え方は後の哲学者であるニーチェにも影響を与えました。「ツァラトゥストラはかく語りき」の超人という概念は、まさに仏陀(目覚めた人)と同義なのではないかと思えるほど類似点が見えます。ニーチェは、その当時原初仏教に傾倒し、キリスト教批判を行ってきていた事からもその事実は証明できるかと思います。

 またドイツの偉大な哲学者であるアルテゥル・ショーペンハウアーもこの仏教を褒めており、本人は「仏陀、エックハルト、そしてこの私は本質的には同じ事を教えている」と述べています。ちなみにこのショーペンハウアー氏は哲学だけで無く、芸術論、自殺論などでも有名な上、博学で、法律学や自然学まで幅広い学問を網羅した総合哲学者として有名なのですが、東洋哲学に関しても相当に力を入れていたそうです。

原始仏教のたどり着いていた場所

 このように東洋哲学が比較的最先端の境地に早い段階から至っていたというのは非常に驚きですが、ある意味これは釈迦自身の実体験に基づいたとてつもなく普遍的な要素を抜き出した物が根本にあったという事もあり、彼の功績は後に生まれた宗教という物では無く、その考え方、哲学に関する物だと言うことも出来るでしょう。とてつもなく冷静で理知的な考え方を持っていた釈迦は、そうした日本人にも影響を与えている概念の他に、現在で言うクリティカルシンキングという物を早い段階からたどり着いていたのでした。それがカラマスッタという教えになります。

釈迦の提唱した「カラマスッタ」という教え

 カラマスッタと言う物は元々カラマ族の地に釈迦が訪れたときに「これまで訪れた聖者は皆言うことが違う。何が正しいのかがわからない」「聖者の言うことが互いに矛盾している上に、聖者によっては他の聖者の教えが全て間違いだといっている人もいる。どの宗教とどの教えが正しく、どうすれば正しい教えに導かれて生きていくことができるのか?」と尋ねられて、それに対して答えた物です。

 その回答を大まかに要約すると「自分の頭で考えなさい。自分の頭で判断しなさい」という事なのですが、釈迦はただいたずらに「自分の頭で考えろ」というだけで無く、絶対的な判断材料にするべきで無い物事についても語っています。それは以下のものになります。

絶対的な判断基準にしてはいけない物

  1. 何度も聞かされてきたこと。人から聞いたこと
  2. 伝統的なもの。長く続いている物
  3. 噂になっていること
  4. 教義や社会規範として書かれていること
  5. 当てずっぽうである事
  6. 誰かが決めた公理
  7. 見かけだけの推論
  8. 「正しい」とされてきた考えとそのバイアス
  9. ぱっと見で「賢そう」だと思える人の意見
  10. 先生、師匠、指導者の意見。(ブッダの意見も含む)

 釈迦の意見や教義すら無批判的に受け入れるのでは無く、自分でしっかりと判断して考えろ、そして自分自身の力で真理にたどり着けなければ、解脱も涅槃も前提からして無理という話ですね。他にも具体的にどのように思考していけば良いのか助言をしていますが、驚くべき事に、これは現在のアメリカで取り入れられているクリティカルシンキング(批判的思考法)とほとんど同じなのです。

 日本では大乗仏教などが普及していったことと、元々神道の文化によって、伝統や社会規範を第一とした考え方もあってか、一部の人はこのカラマスッタ的思考にたどり着いていると言っても良い物の全ての日本人がそうあるのかと言われると頭を抱えてしまわざるを得ません。そこで、そんな凝り固まった思考から抜け出して、新しい世界を見るための方法を、釈迦の残したものからエッセンスを拾って、このサイトでは一つずつ丁寧に説明しようと思っています。